国際歴史論戦研究所の池田悠研究員は7月31日(金)、国家基本問題研究所企画委員会において、一次史料に基づき南京事件の真実に関する自身の見解を述べ、櫻井よしこ理事長をはじめとする企画委員らと意見交換を行った。

日中間には多くの歴史問題がある。その中でも、1937年(昭和12年)、中国の首都・南京で蒋介石軍と日本軍とが戦った南京戦で生起した、いわゆる「南京事件」の存在は大きな問題とされるが、その実態は今なお多くの謎に包まれている。
これまで中国側は南京に資料館を建設し、大虐殺の存在を国際的に宣伝してきたのに対し、日本側からの体系的な反論は限定的であった。このままでは、中国側の一方的な宣伝工作が国際社会に定着しかねないという危機意識のもと、池田氏は一次史料を用いた客観的な再評価を行い、その成果を著書『一次史料が明かす南京事件の真実』にまとめたという。
現存する当時の史料が限定的である中、同氏の解説は具体的かつ客観的であり、反論として十分に説得力を備えている。その発表概要は以下のとおりである。
【概要】
最初に指摘したいのは、南京事件に関する評価が時代ごとに変化している点である。南京戦当時は現地の第三者が、「犠牲者1.2万~2万人」と証言し、東京裁判では中立的証人の証言により虐殺を認定し、埋葬数からその数を「犠牲者20万人以上の大虐殺」と断定、そして現在は、中国側の新証拠による告発を契機として、検証が進んだ結果、「犠牲者数万人規模」へと変遷している。現在では、埋葬記録や人口記録の検証から大虐殺の信憑性は否定され、事件当時から指摘されてきた中国による宣伝工作なども今や資料を基に明確に確認されている。しかし、事件当初から存在する第三者証言に関しては、これまで全体として否定されたことは無く、結果として、国際的には何らかの南京事件が「あったもの」として認識されている。しかし、発信源とされる第三者や中立的証人の信憑性について、これまで体系的に検証されたことは無い。
そこで、以下では一次史料を用いて南京事件の発信源である第三者証言を客観的に再評価した結果を述べる。
●南京事件の発信源は南京アメリカ宣教師団
まず、南京事件を初めて報じたのは、1937年12月15日付の『シカゴ・デイリー・ニューズ』(スティール記者)及び同12月18日付の『ニューヨーク・タイムズ』(ダーディン記者)による日本軍の非違行為に関する記事である。しかし、これらの記事は、アメリカ人宣教師のベイツ氏自らが用意した声明を記者に手渡したものが基になっていることが、同氏の友人宛ての手紙から判明している。実際、ベイツ氏の声明と新聞記事の間には高い類似性が確認されている。
次に、1938年2月2日の国際連盟において、中国代表の顧維鈞氏が、『デイリー・テレグラフ&モーニングポスト』紙の記事(同年1月28日付)を基に、日本軍が2万人の市民を虐殺したと非難した。記事の原文には「ある宣教師の見積もりによると(A missionary estimates)」とあり、当時、南京に残留していた外国人宣教師は全員アメリカ人であったことから、アメリカ人宣教師が発信源であることが分かる。
また、南京事件告発書とされるハロルド・ティンパーリ著『戦争とはなにか』(1938年)に収録された手紙や日記類は宣教師のものであり、本作は中国国民党中央宣伝部が資金提供して執筆を依頼したものであることも判明している。加えて、南京安全区国際委員会委員長を務めたドイツ人のラーベ氏の日記も、宣教師からの報告が大半を占めており、自身が虐殺を直接目撃したものは一件もない。さらに、東京裁判に出廷した外国人も、全員がアメリカ人宣教師であった。
●アメリカ宣教師団が設立した奇妙な中立地帯:南京安全区
当時、南京市内には在留外国人(主にアメリカ人プロテスタント宣教師団)が組織した国際委員会により、戦闘中の市民の避難場所として日中両国に提起された「南京安全区」が存在した。しかし、そこには第三者の軍事力による中立性が担保されておらず、日本側はこれを認めなかった。日中双方が認めていた上海の安全区は、フランス人ジャキノ神父(カトリック)が設立し、中立をフランス軍が担保していたため、安全区という名称は同じでも、その実態は全く異なっていた。
南京安全区の実態は、戦闘中には中国軍の砲台が稼働し、戦闘後は武装した中国兵が潜伏するなど、中立とは程遠いものであった。その上、宣教師らは日本軍を非難する一方で、中国兵や宣教師らによる蛮行(略奪行為など)を問題視しなかった。
実際、アメリカ宣教師団の真の目的は、安全区の発案者で宣教師団のリーダーでもあったミルズ宣教師の「中国軍を支援・保護しよう(encourage and comfort the Chinese army)」(1937年11月18日付、“Vautrin’s Diary”から)という言葉に示されている。
●南京事件は安全区を維持するために創作された
本来安全区は、日本軍の南京入城後はその目的を果たし、不要になるはずであった。しかし当時のジョンソン米大使によると、日本軍による市民への恐怖支配が激しかったため、安全区を維持したという。だが、その暴行事件の実態は検証されておらず、「一方(中国側)の話を聞いただけ」(1938年2月10日、シャッフェンベルク氏)という指摘は重要である。つまり、中国軍を保護するために安全区の存在が必要であり、その目的のために南京事件が創作されたと考えると辻褄が合う。
なぜなら、日本軍が安全区を強制的に解散させると、「もはや虐殺の話を聞かなくなり、概ね秩序も回復した」(同年3月4日、シャッフェンベルク氏)とされるように、南京事件の報道も沈静化するからである。これは安全区と事件が相互補完の関係にあり、中国兵が安全区内で事件を起こし、宣教師がそれを日本軍の仕業として記録・発信し、中国が大々的に世界に宣伝するという構図であったことを示唆している。
●アメリカ宣教師団が中国軍を支援した理由
では、なぜ宣教師団は中国軍を熱烈に支援したのだろうか。中国国民党軍を率いていた蒋介石は、宋美齢(プロテスタント)と結婚した後、1930年10月に上海のメソジスト教会で洗礼を受けた。さらに1936年12月に西安事件(共産党軍による監禁事件)が起きたのだが、翌年蒋介石が解放された際、監禁時の経験を基に信仰告白をしたことで、宣教師たちは蒋介石に熱狂することになる。
その結果、1937年5月6日、中国の全国基督教連盟は蒋介石が進める「新生活運動(近代国家建国のための民衆教化運動)」への支援を決議した。新生活運動には民衆生活の『三化』というスローガンがあり、その第一は「軍事化」である。つまり、宣教師たちはプロテスタントの総意として、政治・軍事も含めた蒋介石の建国運動を全面的に支援したのである。
以上のことから南京事件の真相は、宣教師たちが蒋介石によるプロテスタント国家建設を信じ、その建国運動(新生活運動)を支援しようとしたことに端を発すると考えられる。その一環として、南京でアメリカ宣教師団が安全区を設けて表向きは市民保護を謳いつつ、実際は中国軍を支援し、それを維持するために南京事件を創作・宣伝したという文脈である。
結論として、日本軍の振舞いとは関係なく南京事件は創作・宣伝されたのであり、中国布教というプロテスタントのミッション(マニフェスト・デスティニー:明白なる天命)の一環であったといえる。
【略歴】
昭和54年生まれ。東京大学経済学部卒。通信技術系ベンチャー企業役員、衆議院議員秘書等を経て独立し、現在、国際歴史論戦研究所研究員、マネジメントコンサルタント、ジャーナリスト。著書に、『一次史料が明かす南京事件の真実 アメリカ宣教師史観の呪縛を解く』(展転社、2020年)がある。
(文責 国基研)




